アファメーションで独立・起業・夢実現。「いきなり!社長宣言!!」-“夢は口に出すことで実現する!”というアファメーション:ライブラリー

2006年4月 8日

兄ちゃん、俺たちは神の使いだ。

夢実現のアファメーションを実践する起業家にもっとも読まれているブログは?

裏切り者に関する新しい解釈。

「あなた、騙していたのね!この裏切り者っ!キィ~ッ!」

ドラマや映画でよくあるシーンですよね。
ジョン・ベルーシ(ジェイク)とダン・エイクロイド(エルウッド)主演の映画「ブルース・ブラザーズ」でも、ジェイクを追う女(レイア姫のキャリー・フィッシャー!)が彼に向かって同じようなことを言います。
(まったくのうろ覚えですが、ニュアンスはこんな感じです。 汗)

みなさんは、こんな風に女の子に詰め寄られて、殴られたことってありますか?

ないですか?そうですよね。僕は…秘密です。
…ってうそです!騙して殴られたことはありませんよ。w

いや、実はそんなことを話したいんじゃなくて、その「裏切り者」についての、歴史的常識を覆すかもしれないお話です。…相変わらず前フリ長くてすいません。
※ちなみにタイトル↑は、ことあるごとにエルウッド(弟)がジェイク(兄)に言うセリフです。
(なので、特に意味はありません。あしからず。)

裏切り者のレッテル。

キリスト教で、裏切り者として描かれている「イスカリオテのユダ」に関する福音書(写本)の修復・解読が終わり、ユダに関する新しい解釈が発表されたそうです。
(その古文書は、放射線やインク分析によって本物と認定されましたが、もちろんそれは「写本」として本物だということで、その中に書かれていることとが事実だということが認定されたわけではありません。)

新約聖書や、四つの福音書(マタイ、ヨハネ、ルカ、マルコ)にあるユダは、使徒たちの会計を任されていたが不正をし、銀貨30枚で祭司長たちにイエスを売り渡したとされ、まさに裏切り者であり、悪の象徴でした。さらに、ユダは自分の行いを悔いて自ら命を絶ったとされていますが、「自殺」もキリスト教の世界では悪と考えられています。
また、マルコの福音書では「生まれなかったほうが、その者のためだった」とまで言われています。

…そこまで言われちゃうとちょっとかわいそうな気もしますよね。w

プロレスやヒーローもののテレビなんかでも、正義の味方が「正義」であるためには、当然「ヒール=悪」が必要です。(だって、全員が正義だったら、戦う必然性がないですからね。)

もしかしたらユダの存在(またはユダの行い)も、キリスト教が「正義」であるために、カウンターとして必要だった「裏切り者=悪」なんじゃないか…なんてうがった考え方をするのは僕だけでしょうか?(汗)

今までの常識が覆される。

けれども、もし今回の福音書(写本)の内容が本物だとしたら、イエス・キリストを裏切ったとされいるユダは、実は「キリストの言いつけに従った真の忠臣」であるということになります。

今回の福音書(写本)によると、イエスはユダに、

「お前はあらゆることがらを越えていくだろう。なぜなら、お前はわたしを包んでいるこの男を犠牲にするからである」

と述べたとあります。

つまり、イエスの内部にある聖なる「セルフ」(ハイヤーセルフ?)の解放を手伝うために、イエスによって裏切りを命じられた(肉体からの離脱を手助けする役目をおっていた)と解釈することができるのだそうです。

さらにイエスは、ユダを「ほかの弟子とは違い、唯一教えを正しく理解していた」と褒めたとあります。

ユダは、官憲にイエスを売り渡せば、後世にわたり「裏切り者」のレッテルを貼られると分かっていたはずです。けれども、他の誰にも相談することなく、イエスの言いつけを守り、彼はそれを実行したことになります。

自らがヒールになることで、キリストの正義性、純粋性、神秘性を保つという役目を負う…他人の評価を気にせずに、自分の信念を貫くというのは、例え自分の師であるイエスの言いつけとはいえ、命がけの決断だったのかもしれません。

…と、ここまでは福音書が本物だったらすごいなー、というお話。

僕らの中にあるもの。

僕は特にこれといった宗教に属しているわけではないので、宗教的な見地からはなにも言えないですし、そもそもその福音書の内容が真実なのかどうなのかも分かりません。

けれども、

「これは正しくて、それ以外は間違っている。」

という一神教的な考え方はどうも肌に合いません。

一見すごい真理のようですが、同じ事象をとっても見方(視点)によってその解釈が変わってくるものもありますよね?

NLP(神経言語プログラミング)というカウンセリングの前提として

「地図は領土ではない」(The Map is not the Territory.)

という考え方があります。

つまり、

「僕らが見ているものは、あくまでも僕らの感情や感覚というフィルター(地図)を通して見て、または感じているものであり、その事象そのもの(土地そのもの)ではない。」

という意味です。

ある尊敬するカウンセラーの方も言っていますが、

「世の中すべてのことは、半分が正しくて半分は間違っている。」

そう考えることでいろいろなことが客観的に見えてくる気がします。

ところで、実はこの古文書の解読がされる前にも、ユダに関する別の解釈があったそうです。

スイスの神学者カール・バルトによると「ユダは、イエスを十字架に架けて『キリスト』にする、という重要な役割を果たした人物であり、『神の使わした者』」ということになるそうです。
(かなり堅物の神学者で、いろんなところで軟派な(?)キリスト教学者をバッシングしてたそうですが。w)

結局、一神教であるキリスト教の世界でさえも、ユダは解釈する人によって「裏切り者」になったり、「神の使い」になったりするものなんです。

神様や仏様が存在するのかどうか、僕にはわかりません。けれども、もしいるとするならば、それはどっかすごい高いところにいるのではなく、僕らそれぞれの心の中に、それぞれの神がいて、いろんな気づきを僕らに示しているんじゃないかなー。

…なんてね。

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投稿者 kuro : 2006年4月 8日 01:03 | ID:558

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